OZMAの『アル中』編歴 UPDATED 2002. 2.11
あれはもう22年も前、1980年の夏、ふと夜中に目が覚め、なんとなくラジオのスイッチを入れると、所ジョージの声が聞こえてきた。あれ?所のオールナイトじゃないよなー。誰だ?これが坂崎幸之助との出会いだった。所氏が『坂崎幸之助のオールナイトニッポン』に乱入していたのだ。これをきっかけに、坂崎幸之助、そして、アルフィーにすっかりはまることになる。
それまでいわゆるアイドル系の音楽に浸かっていた高校1年生には生ギター2本とベースの「フォーク」の響きは、とても新鮮なものだった。
1980年8月30日、アルフィーがキャンペーンで我が町、千葉県松戸市にやってきた!場所は松戸駅そばの、今はなきPONTEの中村屋レコード店頭である。始まる前、3人が楽器売場でギターの弦を選んでいる姿を見て、うあー生アルフィーだー、と感激したのをおぼえている。最前列にいたことと、一緒にいった弟が、坂崎氏に「松戸の少年!」といわれたこと、サイン会で高見沢氏の握手が力強かったことしか覚えていない。なにしろ、22年も前だもんなー。このあと、柏の長崎屋の屋上でキャンペーンがあるという。もちろん行きます!ここで覚えていることは、客は通りすがりの奥さんや子供ばかりで、ファンは多分一桁しかいないという客の前で『追想』をやったこと、坂崎氏お得意の三平ネタ
「そこのボクちょっとまってねー。つぎドラえもんやるからねー」
が出たことくらいか。3人はこのあと、NHK-FM千葉の『リクエストアワー』の生放送へ向かった。その番組での『サイン入りおんがくちょう』プレゼントに弟と2人で応募し、2人とも当選というラッキーなこともあった。(応募数がそれだけ少なかったのだとは思うが・笑)
その年の暮れ、近所の家の塀に、無造作に張り付けられた一枚のポスターを見つけた。
『フォークソング紀行・アルフィー唄い歩き』 1981年2月5日 松戸市民会館
何!?松戸でコンサートやるのか!早速次の日、友人のTとWを無理矢理誘う。彼らは特にアルフィーのファンというわけではなかった。というより、アルフィー自体が全く知られていなかった。知られていたのは俺がアルフィーとかいうグループのファンだ、ということだけ。
どれだけアルフィーが無名だったか?時期は少し前になるが、『所ジョージのオールナイトニッポン』の中の「ツッパリバカ」というコーナーでこんなハガキが読まれたことがあった。
A: わたし、漫画家になりたいんだ!
B: でも、漫画家っていうのは、ひとの知らないようなことも知ってなきゃだめなんだよ。
A: うん、だいじょうぶ!だってわたし、アルフィー知ってるもん!
当時のチケットは、まだ現在のようなシステムがなく、会場や、周辺のレコード店などで販売されていた。松戸駅近くのイトウミュージックシティというレコード店に行き、
「2月5日のアルフィーのチケットありますか?」
と聞くと、店員は「はい」と答え、おもむろに座席表をひろげた。
「この赤で囲んであるところをうちで売ってるんですけど、どこがいいですか?」
いやー、いい時代だ。アルフィーのチケットが簡単に買える。それも、席を選べるのだ!10列目位のセンターの席を頼んだ。店員は座席表にチェックをいれた。よく見るとそれが初めてのチェックだった。つまり、俺が最初の客だったらしいのだ。当日の客入りが心配になった。
そして当日、客席はほぼ満員。客層は子供から老人までなんでもあり。初めて見たアルフィーのコンサート。昔のフォーク、童謡、替え歌、そしてオリジナル曲、もちろんお約束のギャグも。俺がアルフィーに完全にハマった瞬間であった。(このコンサートの詳細は『フォークソング紀行』完全再現のページをご覧ください)
坂崎幸之助のオールナイトニッポンの中に「幸ちゃんの”どうもすいません”」というコーナーがあった。リスナーが何か頭に来たこと、謝って欲しいことをハガキに書いて、それを坂崎氏が「ドーモスイマセン」と、林家三平のまねで代わりに謝る、というコーナーだ。
「よしこ〜と仰ぐ〜 このそ〜ら〜で〜 ゴーゴー踊ったら〜 なおゆ〜か〜い〜」
三平師匠の名曲 ”よしこと歩けば”がテーマソングになっていた。
ある時、当時の最新アルバム「讃集詩」の歌詞カードを見ていると、(このアルバムの歌詞カードは活字ではなく、手書き文字だった)「Something Blue」の歌詞の最後の方の ”女の怨み言” という部分の「怨」という字が間違っている事に気がついた。左上の「タ」の部分の点が一個多いのだ。これはネタになる!!と思い、すぐにハガキを書いた。そして次の週。そのハガキが採用された。
「えー、次は松戸市の○○、地理32点。ははは、バカですねこいつは。(笑)えーなになに、”おい!讃集詩の歌詞を書いたヤツ!Something Blueの歌詞の「怨」という字が間違ってるぞ!点が一個多い。謝れ!”あーはいはい、あれね。あれは桜井が書いたんですよ。ホントは気がついてたんですけどね。そのまま出しちゃった!(笑) じゃ、代わりに謝りましょう。ど〜もすいませ〜ん」
ラジオで自分のハガキが読まれることが、こんなにドキドキするものとは思わなかった。これに味を占め、ほとんど毎週のようにハガキを出すようになってしまった。時には、一日で三枚読まれるという快挙!もあったほどで、その時は
「え〜松戸市の○○、多いですね〜!こいつは最近出てきた人間ですけども。」
と、坂崎氏に驚かれたこともあった。(当時のコアなファンの間では、俺も常連リスナーということになっていたらしい。この事実はつい最近発覚。本人は全然知らなかったけど。)
1981年のある日。
「坂崎幸之助のオールナイトニッポン」で、ニューアルバム「ALMIGHTY」の公開レコーディングの告知があった。このアルバムの片面を、スタジオにお客を入れて、ライブレコーディングするとのこと。参加したい人は、アルフィーファンになったきっかけ、好きな音楽、好きなアーティスト、参加するにあたっての意気込みなどを書いて応募せよ!という。うお〜!絶対行きたい〜!と思った俺は、早速、ハガキ一面にあふれるほどいろんな事を書いて出した。はっきり覚えていないが、たしか30〜40人ほどの募集だったと思う。かなり競争率は高そうだし、まあ無理だろうと思っていた。
数日後、学校から帰ると、ちょうど母が電話に出たところだった。
「電話だよ」
「誰?」
「アルフィーのマネージャーさんだって。」
うぉ〜!なんだ?どうした?訳の分からないままあわてて受話器をとる。
「あ、アルフィーのマネージャーやってます、関口です〜。公開レコーディング、当たりましたんで!」
「えっ!」
そのあと、どんな会話があったのか、今となっては全く思い出せないのだが、関口さんの最後のこの言葉だけ、なぜだかはっきり覚えている。
「それじゃっ、そういうことでっ!ィヨロシクゥ〜〜!」
妙に明るい人だ。
そして、当日。
一口坂スタジオの前には、もう結構な人数が集まっていた。げげっ!女ばっかりだ。ちょっと肩身の狭い思いで立っていると、突然話しかけられた。
「こんにちは。アルフィー見に来たんですか?」
「はい。」
「僕、△△(覚えてない)といいます。」
「あ、どうも。○○です。」
「あ!○○さん!よくハガキ読まれてますよね!知ってますよ。」
「あ、そうですかぁ。どうも・・・。」
「あ〜でも本名だったんですね。ペンネームだと思ってました。」
おいおい、悪かったな、変わった名前で!と、ちょっとムッとしたが数少ない男性ファンだ。しばらく話をした。名前は思い出せないのだが、彼は大阪からきたらしい。
初めて入ったレコーディングスタジオ、物珍しさでキョロキョロしながら、フローリングの床に座って始まるのを待った。そしてメンバー登場。一番前で体育座りだったので、目の前のメンバーを見上げるような格好になってしまう。
何曲か終わったとき、坂崎さんが
「もうちょっと盛り上がった感じを録りたいなぁ。よし、前の男3人!曲終わったら、イエーィって言えーぃ!」
”CATCH THE WIND”が終わって拍手のあと、3人、せ〜の!で叫んだ。
「イエーィ!!」
なんか、まぬけだなあと思ったが、坂崎さんの
「いや〜うまくいきましたね」
の言葉に救われる。コンサートと違って、失敗あり、録り直しありなので、いつもと違う雰囲気であっという間に終わってしまった感じがした。
そして、発売されたアルバム「ALMIGHTY」には、見事にあの「イエ〜ィ!」が収まっていたのだった。
この頃、高校生だった俺は、とにかくアルフィーアルフィーと大騒ぎだった。今、思い出してみると、よくもまぁあんなに燃えていたものだと思う。なにしろ周りにはアルフィーを知っている人間なんてほとんどいないのだ。そんな中、レコードが出れば宣伝、たまにテレビに出るとなれば、教室の黒板に『○○日××テレビ・アルフィーTV出演!』と大きく書く始末(笑)。
そして次第に人気も出始め、『暁のパラダイスロード』がオリコン50位以内にランキングされるほどになり、友達からも
「アルフィーのレコード買ったよ!」
とまで言われるようになった1983年、とうとう武道館でのコンサートが決定。そして『メリーアン』の大ブレイク、『星空のディスタンス』の大ヒット。
出す曲が次々とトップ10に入るようになり、迎えた1986年夏。『TOKYO
BAY AREA』。あの松戸のコンサートにも一緒に行ったWと二人で、10万人弱という大観衆の中にいた俺は、感激と同時に何かが心の中でしぼんでいくような想いに囚われていた。アルフィーを見るために、全国から10万人が集まってくる。なんだこれ?信じられない。凄いことになっちゃった。
「俺は・・・もういいのかな・・・」
翌87年の『U.K.BREAKFAST』から、96年『LOVE』の頃まで、シングルで言えば、87年『君が通り過ぎたあとに』『サファイアの瞳』あたりから、96年『倖せのかたち』まで、TV出演をチェックしたり、CDを買ったりすることは続けていながら、あの高校時代のアルフィーに対する情熱はなくなり、コンサートに行こうという気持ちは全く起こらないままだった。
98年、友人にさんざん勧められてパソコンを購入、同時にインターネットを始め、自分のホームページを作ろうと考えたとき、初めに思い浮かんだのが「ALFEEのページ」だった。不思議なものだ。あんなに気持ちが離れていたのに・・・。
全国の見知らぬアルフィーファンと接点を持つようになったことがきっかけとなり、もう一度あの場所へ戻ってみようか、という想いが強くなったその年の夏、『TOKYO
ONE NIGHT DREAM』。昭和記念公園の一番後ろのブロックで、『ROCKDOM』を聴きながら、12年前のBAY-AREAのあの炎を思い出し、涙を流している俺がいた。 (END)